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映画『シン・ウルトラマン』ネタバレ感想 聖なる人間フェチの献身

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映画『シン・ウルトラマン』ネタバレ感想 聖なる人間フェチの献身

東京ピカデリー新宿にて、最前列の画面で『シン・ウルトラマン』を観た。

東京の映画館はえぐい。TOHOシネマズ新宿は満席で、ピカデリーも残り2席を残すのみだった。

5/28(土)14:00。

ウルトラマンにも特撮にも思い入れがないので、「not for me」なんじゃないかと危惧していたが、

そのハードルの下がり方が逆に良かったのか結構面白く見れた。

いっしょにみにいったokamoto kensetsuは「結構寝た」と言っていた。両隣も一緒になって前半は結構うつらうつらだったらしい。

期待低く見に行ったが、結構面白かった。

というのも特撮ファン向けに作られていたと事前に聞いており、特撮ファンでも何でもないミーハーな俺はただ辟易するだけではないかと思ったからだ。
ストーリーも全体のつながりがない(全5話のドラマを繋げたみたい)ときいていたので、基本話の流れを楽しみに劇場に足を運ぶ俺にはきついように感じられた。

しかし、ウルトラマン目線の話だとすると、意外に話は一貫しているように思えたのだ。ウルトラマンをはじめとする光の国の神々や外星人らにとって地球人は猿とか、現代で我々で言うところの家畜、あるいは猿に近い存在であり、サルが死にそうになりついついかわいそうになって融合体となってしまった変態人間がウルトラマンだ。人の力を手に入れたおサルはどう考えても次元の違う高度な生命体に逆らう術を持ち、ついには脅威を感じた人類から殺処分が下されようとするが、変態の愛によりそれは回避され、一人の人間の死をもって猿山は暫置されることになる。

要するに

そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン(ドン引き)

ということである。

わが嫁はんの友人は大学にて猿の実験をしており、ある日、実験対象のメス猿に発情されて腰を擦りつけられたらしい。当然酒席での笑い話となったわけだが、まあ大概通常は、にんげんは猿に欲情しないという前提で生きている。

そうでない世界を除きたいなら、『聖なるズー』を読むといい

しかし、神の目から見て人間は猿なのだ。そして、キリスト教圏のような人間は神に愛されている、啓示を受けているという前提も、SFと日本の世界ではむしろ破壊すべき前提なのである。

人間は特別な生物である、という嘘の物語が破壊されている物語なのだ。

ウルトラマンはなぜそんなに人間が好きになったのか

──それは、偏愛である。

ウルトラマンと隊員たちのつながりや愛がよくわからない、描かれていないというのは俺はわざとだと思う。ウルトラマンは猿に本気で恋し友情を感じる裏モノジャパンとかに掲載されるような奇特な人なのだ。それはフェチであり、感情的な交流とか、過ごした時間とかで測られるようなものではない。ウルトラマンは人間が好きだから好きなのである。

そう思えば、アサミ隊員をウルトラマンがにおいで追跡するというのも、理屈が通っている。

においが数値化できない痕跡というのは首肯できない発言だったのだけれど、ようするにウルトラマンは筋金入りの人間フェチであり、その中でもアサミ隊員に興味を示しているとなれば、においというフェチ的に本能に訴えかけてくるポイントが争点になってくるのは必然なのだ。
迷子の愛犬を探すのに、ムツゴロウさんが小屋のにおいをかいで痕跡を探すのはなんとなく、「しっくりくる」光景ではないだろうか。

ぜひ、『ムツゴロウさん名場面集』でググってほしい

人間のシーンが『シン・ゴジラ』に比べてつまらない理由

ウルトラマンの変態を主軸として物語が駆動しているので、ウルトラマンが出てこないシーンがつまらなくなってしまうのは仕方がない。一緒に行ったokamoto kensetsuは横の人も含めて前半寝ていたと話していたが、それはウルトラマンがまだ出てきておらず、人間牧場の日常が彼らの鳴き声とともにやたらと丁寧に描かれていたからなのである。

『シン・ゴジラ』はやはりゴジラを人間が倒す話なのだ。そう思うと、ゴジラやコングを完全に「神」として描写したモンスター・ユニバースシリーズの方が『シン・ウルトラマン』のコンセプトには近いと感じる。

コングと少女との異生物間の愛のようなものも描かれるし。

「君が望むならそれは強く答えてくれるのだ」「痛みを知るただ一人であれ」

私には、一人のズーフィリアが孤独の中、

心と股間に孤独感や痛痒感を抱えて「それ」に思慕の眼を向けている画が浮かんでならない。