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映画『ドライブ・マイ・カー』ネタバレ感想──難しくてわからん

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映画『ドライブ・マイ・カー』ネタバレ感想──難しくてわからん

light road landscape sign

『ドライブ・マイカー』は2021年の日本の映画。

監督は『寝ても覚めても』『ハッピーアワー』などの濱口竜介。

第74回カンヌ国際映画祭脚本賞ほか、4部門受賞。第94回米アカデミー賞作品賞、日本作品発ノミネート、国際長編映画賞受賞。

原作は村上春樹『女がいない男たち』収録の短編『ドライブ・マイ・カー』。

大幅な脚色を加え、国内評価も上々。第94回日本アカデミー賞最優秀賞も受賞したが、そのことは公式サイトにて、目立つ位置には記載されていない。

2022年4月27日時点の公式サイトのスクショ(https://dmc.bitters.co.jp/)

『偶然と想像』だけ見た。「この時点であわないなー、みんなが評価するのはわかるけど俺の細胞は全然振動しない……、ラーメンズとかとおんなじ感じや……」という感想だったのだけれど、結果として『ドライブマイカー』の方がより合わなかった『偶然と想像』は短編集だったし、コメディも結構露骨だったのでまだ血肉になったのだ。
村上春樹自体も得意でなく、しかし最近『風の歌を聴け』を読み直すと確かに「オオ……なんかわかるぞ! 俺が年を取ったからか?? あの頃の春樹に近づいたのか?」と期待したのだが、また離れてしまった。とはいえ、原作を読んでいないので、それは早計かもしれない。これから読みたいと思う。

まじであんまり意味が分からなかった。

人の心の動きに対する想像力が俺にはほんとにないんだろうなと驚く。
一応色々な感想も聞いたりよんだりして「分かり合えないことについての話」とか「脚本の妙」とかについてもある程度承知したが、それはそれとしてほんとにあんまりシーンとかセリフが脳に残っていない。
こういう時俺はいつも『ほんまにオレはアホやろか』という水木しげるの書籍タイトルを思い浮かべるのだ。

とはいえ、「どういう方向に話が転がっていくかわからない」という点で確かに退屈する感覚はなかったし、長くはかんじたものの、監督の手腕は確かなんだろなと思う。ああいう、言葉の違う集団をまとめ上げて、演技している演技と、自然な演技と、そのどちらでもないものをコントローバルにするのは確かに「どうやってんか」という話である。

とりあえず、一応、褒めている。こういう俺はわからないけど世間の評価は高いものについて以前は俺の感じたままにののしるのが誠実さだと思っていたのだけれど、はっきりいって特に映画が好きでもなく詳しくもなく文化度の高い家庭で育ったわけでもない俺の意見や感性の方が間違っているのだ。談志いうところの「現実が正解なんだよ」というやつである。
『偶然と想像』を盛岡フォーラムで見た際、最初に濱口監督が出てきてメッセージを話した。「なんかぼそぼそ言って!」と俺はその時のソーシャル上の感想で悪口を言ったのだが、なんかそういうの品性下劣かもなと反省している。ちょっと前に『アフターシックスジャンクション』に出ていた時はかなり計画に話していたし。
とはいえ、東大の教養出て東京藝大で映画研究して、修了制作で30歳の時に高い評価を得て……とかなりハイソな経歴の人なわけで、その文法が理解できなくてもそりゃ仕方ないだろと思う。
むしろみんなホンマにわかってんのか?

とはいえ、どちらかといえば『偶然と想像』の方がまだ話が分かったし、俺にとってとっつきやすかった。というのも、偶然と想像は他人同士の話が多くて、分かり合えないことが前提となっていた。それは俺の世界観と一致する。

演技とセックスの疑問

こちらは他人同士といえども妙に接近する場面が多く、もちろんセックス場面もがその最たるものである。ふと思ったのが、俺ってホントに自然なセックスを見たことがないなということ。AVは言わずもがな、現実で映画のように斜めになってグイグイキスしたり、妙に背中をチュッチュしたりすることなんかそんなないだろと思うが、それも正しいかどうかはわからない。流出するハメ撮りビデオなんかも垣間見た感じでは全然リアルな感じがしないし、ただ、普通のセックスを撮っただけでそれは世界唯一の映像となるのではないか。
まあ、カメラの存在を意識した時点でそれは不可能な話だし、隠し撮りした時点で犯罪だし。

そう、カメラの前で演技をするということは、カメラがそこにある時点でどこまで行っても「演技」だし、真実ではない。しかし、カメラを通して、現実以上の真実が浮かび上がるのではないか、というのもよく言われる話だ。

今回の、家福も、濱口監督も演技に宿る真実をキャッチしたいだとか、信じているとかそういう意思を持っている。俺は、最初からそんなの無理だとあきらめている。だって、証明できないから。
真実かそうじゃないかはそれでも判別できると断言できるほど、感性を信じていない。というか、まったく信じていない。
妻の真実なんてのも、だから最初からわからないことはわかっていたし、そこに喪失を抱える家福の思いに共感できず。

濱口監督は震災関係の作品も多く制作しているわけだが、そういうところも俺と大きく違うなと思う。俺ははっきりいって、災害や苦労に見舞われた人々に対してなんの共感もわかないのだ。俺がそんな目に合わなくてよかったなとかも思わない。「すごいことがあったんやな、それに対して俺は何もできないな、できる範囲で金とか労力は提供できるけど、面倒だし惜しいな、出せる人はすごいな、もし俺に同じことが起こったら何もできないだろうな、運で生きてるだけだわな」と思うだけである。被災地ドキュメンタリーを作ったり寄付したりする人って、そこに対してシンパシーではなく、共感する技術としてのエンパシーを発揮しているのかもしれないし、それは崇高なことなのだけれど、まあ、俺は頭で理解しているだけですわな。
要するに、俺にとっての真実は狭く、もちろん金とか社会とか福祉とかいうバーチャルな概念を一部共有してはいるのだけれど、一時期陰謀説としてよく解かれたゲーム脳に、ゲーム全然やってないのにどっぷりつかったような状態だ。
だからまあ、強いているなら『賭博黙示録カイジ』の鉄骨渡りで話されていたような、「俺たちは信号を送るだけ……!」あたりが世界の理解の核にあって、「それ以上の真実なんて何もないんじゃないの? それ以上グダグダ言う必要があるか」と感じてしまうのだ。
妻が信号を送っているとして、それを自分の持っているアンテナで受信できる分でしか理解できないのは当然ではないかね。

本作の主役はみさき

もちろん、本作の主役は実のところ、母に2時間以上の無免許運転を強要され運転技術を身に着けたという漫画的な設定で、傷を抱える23歳のみさきであり、わかりやすく影響を受けて変化した彼女のシーンで映画は終わる。
家福は(ワーニャおじさんの)セリフでも、(物語内の)セリフでも、自分の気持ちを割とはっきり口にするが、みさきはもう少し無口である。しかし、観劇と仕事を通してはっきりと変化したことが劇中最後に描かれる。

セリフはすべて人工物であり、真実が含まれていると証明はできないのだが、結果として観たもの、関わったものに明らかな状態変化を及ぼすことがある。それが物語の作用である。

はっきりいって共感とか気持ちの理解についての造形が浅いのなら、物語の構造とか撮影と編集にまつわる技術について語らないと評論として話にならないのだが、そのあたりについて何も言えない。きっと、映画関係者の評価はそこを中心にしても生まれているはずで、ローコンテクストな部分で俺が何を言ったってそんなもの風の前の塵に同じ。
やっぱり俺にとっては『ドライブ・マイ・カー』より、『キャプテン・オブ・ザ・シップ』ですわ。
お前が舵を取れ!!