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羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来──88点 あ~~もっと僕がアニメすきであれば……

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羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来──88点 あ~~もっと僕がアニメすきであれば……

高評価精霊現るアニメーターの評価たかたか中国アニメ映画の翻訳版『羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来』を見た。

ママタルト檜原のごとく「あ~~もっと僕がアニメすきであれば……」(もっと100点くらい喜んでるんでしょうねえ)と思った。

でも言うてる部分ほど文句ないねん。大好評。

見た直後の感想(Filmarks)を引用して色々言うていく

かなりの良作なんだけど、大感動というには一歩及ばず、と感じた。
一緒に行った嫁はんはめちゃくちゃ好きになっていた。
そういうオタク心を惹きつける何か魅力のようなものが詰まっていて、それを俺がキャッチできていないということなんだろう。

と、書くとオタクしか楽しめない映画みたいだが、そういうわけではない。

Web版の方は或いはそういう要素があるかもしれないが(パロディとかもあるから)、映画の方はそうではない。

ファミリーで楽しめる『ドラゴンボール』とか『君の名は』とか『ジブリ』とかと友達と考えて問題ない。

とにかくアニメーターの評価が高い通りバトル描写のダイナミズムは圧巻だ。

日本の漫画文化、そこから影響を受けたアニメ文化、それが海を渡って……という集大成である。この良さはWeb版の一話からあるので監督のMTJJ氏のもともと持つ良さ、センスなのだと思う。

現時点(2020年11月10日 13:43)で1943回しか見られていない。英語版は500回くらいだった。アニメはそんなに見られないのだろうか。

ジャングル系とともにみんな楽しんでやってくれや。

その魅力を理屈で推察するとまず広がりが半端ない世界観。キャラクターや設定などかなり豊富に構築された世界観のほんの一部だけをこの映画の中で垣間見たということがよくわかる。属性、系統、りょうかい……。妖精と人間と、、。海外だからこそ、日本のどこかで見たような設定をてらいなくやれるし、それでもなお日本にない背景や思想がある。そのバランスが好きなんじゃないか?
キャラクターも豊富で、後半で少ししか出てこないナタさまなんて明らかにキャラが経ちすぎている。いくらでもスピンオフが作れるし、いくらでも脳内でキャラクター達を動かすことができる。
その豊潤さを愛してやまないのかもしれない。

と、慮ってばかりでこいつはほんとにおもしろかったんか?と疑問が湧く書き方だ。いや、面白かったねん。

ただ、相対評価すると、平均的な満足度に俺は及んでないのだろうなと。

だが、俺はそこまで沼に足を踏み入れる前提がない。なので、そこまでそこで狂喜乱舞できないのかもなあ。
彼女たちはこれから味わう悦楽甘幸(艱難辛苦の逆ってこと!今考えた)をこみで歓びを得ているのだ。

なんやこの四字熟語!お前のベイビーワード(Ⓒ滝音)に興味ないねん!

だが、一本の映画として評価すると、上記の世界観の広がりはものすごく豊かなオプションなのだが、やはり一本だけの完成度となるとなかなか難しくなってくる。
一番引っかかったのはフーシーの一理ある言い分がなんにも解決されず、ただ、荒くれ者として秩序維持側に追い詰められ、木化&投獄という金田一の犯人的結末を迎えたことである。人間に住まいを追われて行き場がないというフーシーの思いには一定の理があるし、ほかの妖精も気持ちはわかるだろうに、単なる暴走(シャオヘイの命の危機こみ)として排除してそれで解決でいいのだろうか?
その問題はきっとこのサーガが今後続いていくにあたってはまた豊かな物語を紡ぐ種となるのかもしれないが、これ単体では納得いかなかった。

もしかしたら続編では「フーシーは復活するのかもね」と嫁はんと話した。でも、それは情緒を排除しちゃうから今考えるとない気がするな。なんかパワーもらうとか、もしくはフーシーの木が伐採されそうになってそれを止めるために……という流れで続編が始まるのかもしれない、気がする。

本作の完成度を高める意味でもう一つ注文を付けたいのが「フーシーらとシャオヘイがすでに数カ月はともに過ごしてのスタートがよかった」ということだ。一日(実質一夜)一緒に過ごしただけでそこまでのきずなが芽生えるとは思えない。なので、フーシーを失うということにイマイチ意味が生まれにくい。

居場所を失ったシャオヘイが初めての居場所としてのフーシーらを見つけたという流れを作りたかったというのはわかるんだけど。順番テレコにした方がよかったんやないかなあ。

・フーシーらVSムゲン→シャオヘイ倒れる→回想

この方がフックもあるし面白くないかね?

また、フーシーがそこまで悪人ではない。ように描かれている。それは安易に敵を設定しない現代的なキャラクター設定であり良い点なのだけれど、シャオヘイが後半ムゲンの側を「居場所」として選ぶロジックが弱くなってしまう原因でもある。本作は、シャオヘイがムゲンを師匠と呼ぶまでの物語である。だとしたら、師匠と呼ぶに足りえるロジックがあった方が良い。

Web版(後日談)で「師匠」がいるという話がすでにでているので、そこを押さえての映画版なら、師匠と呼ぶことはあらかじめ観客の中で必然だから、物語上の効果としては十分だったのかもな。

まあ、心情的な流れとしてシャオヘイはまだ子供だし、あれだけ長い間一緒にいたら一日家族のフーシー達よりはムゲンに情がうつるわなあと納得できるのだが、やっぱりそれって思想で選んでないので何となく居心地が悪い。まあ、シャオヘイは殺されかけたわけで、そりゃそうなるんだけど、、やっぱり何らかの大義名分を背負ってほしいわあなあ。でも、これがハリウッド式の作劇に慣らされた俺の悪い癖なのかもしれない。
お約束を信奉しすぎなのかも。「悪い父親から良い父親へ」的な物語は確かに前時代的なようにも思うのだ。

2作目以降も予定されているということなので解決されない部分があるのは狙いでもあるのだろう。

とにかく俺は嫁はんが大喜びしていただけで、俺は認めなくても批判してもそんなもん糞みたいに跳ね返すだけの価値がある作品だということを「実感」した。

どうせ全部の創作物がそうなんだろう。

それがいいのだ。

 

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