『シザーハンズ』(1990)感想──悪女とフランケンシュタイン ※ネタバレ
目次
視聴直後感想
寓話だからいいんだけど脚本はあともうちょっと詰めればもっといいものができるのに~と思った。
悪い奴は悪く、いい人はいい、そしてキムは素敵という価値観が固定されているのでどうも納得いかない。
キムは当初感じ悪かったし男選びのセンスも最悪だ。そんな人間をエドワードが好きになる理由はというと「見た目での一目ぼれ」以外になさそうなのでどうにも底が浅く感じてしまう。
どうせなら最初から最後まで良い人なペグを好きになるか、キムと自分以外全員敵のセカイ系激エモ展開に踏み出してほしかった。
エロ女に誘惑される下りとか絶対省いても話成立しただろ。ティムバートンの個人的な体験とか怒りがそこにあるのではないかと邪推せざるを得ない。
やっぱりよかったのは画面作りと相反する世界の取り合わせ。古城と郊外の住宅街を、ハサミ人間と純愛をドッキングさせて美しい何かを生み出そうというセンスはやはり今でも異能であり続けている。
クッキーの心臓を作りためのマシーンの微妙な不安定さとか、今のVFXでも再現できない部分―キュートさと奇妙さ―を湛えすぎ。エドワードが庭師として作り上げた庭木の数々が色とりどりの街に並ぶ光景…。
もちろん氷の彫刻がほられ、雪が降る中でキムが舞い踊るシーンもよい。ただ、ずっと庭木でやってきたのに急に氷になったのはちょっと唐突に感じた。そんな氷の塊をどっから持ってきたという疑問も頭を離れない。そこらへんもっとうまくやれるはずなのに・・・。こう思うのは、野暮なのでしょうか?
Story
ティムバートンが贈る大人のおとぎ話。
郊外の住宅地で化粧品の訪問販売を行うペグは、怪しげな古城にて手がハサミのまま生みの親を亡くした人造人間のエドワードに出会う。独りぼっちのエドワードは自宅に迎え入れられ、芸術的才能を発揮して近隣住民やメディアにまで認められていく。しかし、エドワードが恋するペグの一人娘キムのボーイフレンドジムが純粋な彼を利用しようと考え初め……。
性悪キムの悪行三昧
とにかくキムに腹が立ったんだ俺は。
エドワード! あんなスベタやめとけ!!!!
(スベタってポルトガル語で「顔の醜い女性」が由来らしい!かしこくなるねえ)
まず、モブ含め登場シーンで一番エドワードに感じ悪かったのはキムなのである(強いて言えば近所の電波おばさんには負ける)。
まあでも、それは勝手に自分のベッドに寝てウォーターベッドを破壊したエドワードが悪い。
で、その後食卓にてエドワードがサービスで肉をカットしてやったのに「あなた外でいろいろやってるでしょ、衛生的とは言えないわ」とかいって断りやがる。
お前の家族みんなエドワードが切ったやつ食うとんねん!衛生面気にするならもっと早めに言え、自分だけきれいなもん食べようと思ってこのエゴイストが!
……で、その後あんまり出てこないと思ったらテレビに出ているエドワードを見てちょっと気遣うようなそぶりを見せる。
まあしばらく一緒に住んで情が移ったんでしょう。とはいえ、ここまででもうちょっと交流のエピソードがないと態度が軟化したことに納得がいかない。不良が突然更生していたようなものである。
しかし、性悪むすめキムは全然性根を入れ替えていなかった。
糞彼氏の言いなりになって、彼氏の狂言泥棒にエドワードを引きずり込むのである。
そして、警察が来たら放置だ。
車で「戻りなさいよ!」と騒いでいたが本当に罪悪感を覚えているなら収監中のエドワードを助けに行き、自分も犯罪に加担していた。あれは狂言泥棒だったんだと主張するだろう。
自分の身かわいさが結局は一番な女・・・!そのくせ立場だけは“いい人”でいようとする! あんた本当の悪党だよ。「悪党だと自分を認める覚悟もない」本当の“悪党”・・・!
フランケンシュタインとシザーハンズ
エドワードは物語の初め、写真を見た段階でキムに恋して肩入れしてしまう。
盲目モンスターである。
さて、なぜエドワードはこのような可哀そうな盲目純粋モンスターとして設定されてしまったのか・・・?
それは、この物語が『フランケンシュタイン』を下敷きにしているからである。
原作フランケンシュタインでは醜い怪物がフランケンシュタイン博士に伴侶となる怪物を作るよう要求するものの、その要求は叶えられない。
本作のエドワードは腕がハサミであるもののほとんどは70’sパンクロッカーのいでたちである。もちろん演じるのはジョニー・デップだ。水道管ビッチに誘惑されるしキムと気持ちを通わせることもできる。
しかし、その期待は裏切られなければならない。なぜならエドワードがそのまま幸せになってしまっては『フランケンシュタイン』の醜い怪物が報われないからだ。
醜いが純粋な怪物と、俗世に穢れた人間。
その構造を維持するならば、やはりキムは「一見聖女に見えてもその実行動は悪女でなければならない」のである。
もちろん視聴者に嫌われないよう態度や口ぶりは聖女のそれなのだけれど。
誰にも理解されない純粋な怪物は孤高に城へ閉じこもる。
キムは城に一度たりともいかないで、孫に昔話を語るだけだ。
いつでも会いに行けるというのに。
ティムバートン悪くないよ
脚本を担当したのはキャロライン・トンプソンであるため上記のキムの欠点の罪状はティムバートンではなく彼女に出されるべきなのだろう。
だとすると、やっぱりティムバートンすばらしいな。
結局ティムバートン映画が評価されるポイントは、闇のディズニーともいうべきダークかわいいデザインやキャラクターの秀逸さであって物語の面白さではない。
『アリス・イン・ワンダーランド』も『ダンボ』も脚本に対しては多くの欠点が指摘されている。
シザーハンズ、この度視聴するまではクリスマス映画というイメージがでかかったのだが、
冬に当てはまるのは最初と最後だけだ。
物語の大半は晴れた街の中、若葉が降り注ぐ日光を照らし返す過ごしやすい季節の中展開される。
カラフルな街にやってきたモノクロの存在が街に彩りを与える。
恐竜、天使、男女。宗教的モチーフに限らない子供のようなエドワードの作品は彼の純粋さと思考の豊かさを言葉でなく感じさせる。
しかし、街には冬が訪れ辺りは暗くなる。
彼には帰るときがきたのだ、と視聴者は直感で理解できるはずだ。
冬に木の葉が枯れ落ちるように、エドワードは自ら剪定した庭木を切り落とし、元居た城へと帰っていく。
そして、街に雪を降らせる存在となる。
怪物が街を作り替えるという構造自体は変わっていない。しかし、彼は若木と関わることはなくなり、ただしんと冷える純粋な気持ちを街にふらせるだけなのである。
とまあ、極度に抽象化すればおとぎ話としてとてもきれいにまとまっている。
具象で考えるのはヤボなのだ、ビッチ。
ジャングル系のパッションあふれるツッコミ。
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