『パワー・オブ・ザ・ドッグ』89点 これは有害な男らしさではなく有害な「○○」の話だ
犬の力…犬の心…
目次
※ネタバレ
凄く変な話だが、アカデミー作品賞ってこういうやつが取る気がする。まあ、取れなかったわけですが…。
『スリービルボード』の視聴後感に近い。
今よりも<遅れた>時代があって、そのなかで偏見で武装した人間がいて、ギスギスとした人間の対立があって、にもかかわらず「…これは笑わそうとしているのか? いや、おもしろいけど」なシーンがあって、謎があって、ジャンル分け不能なままに最後まで連れていかれる。
ただ、『スリービルボード』のフランシス・マクドーマンド力みたいなものが若干かけていたのと、テーマ性でも多少遅れを取っていたのかもしれない。というか、これは結局はジャンル映画っぽくなって終わるからな。
「怒りにとらわれてはならない」という明確なメッセージがあり、主人公や周りの人間が変化したスリービルボードとは違う。登場人物は変わらず、最後に物語の構造がおぼろげに明らかになるタイプの話。
ここからネタバレだが、ピーターと母親共謀説は俺は明確に否定したい。そもそもピーターが殺意を持った時もあれば持っていなかったときもあり、その現実味も基本的にはなかったはずだと思う。ただ、結果として殺せる状況が整ってしまっただけで、それでも最後に煙草を交互に吸うくらいにはフィルのことをピーターも好きになっていて、それでも運命は犬を殺すのだ。
炭疽菌で確実に殺せるかもわからないし、復讐を企てるのであれば、アウティングしてやった方がよっぽどフィルのダメージにはなったと思う。この映画、シーンシーンで少し子供っぽくて、そこは少し気になる。
「あの山を見て見ろ、ブロンコ・ヘンリーは吠える犬を見出していたんだ!」とか、10歳のカウボーイ憧れてるやつのセリフやろ。風呂に入れといわれたのを執拗に気にするのとかも、繊細な感覚を持っているならむしろそこで傷ついたことは隠そうとするような。
このあたり、フィルがカンバーバッジであることが少し俺の目をくらましてしまっているのかもしれない。もっと、バカ単純な奴なのだろう。それこそ、『スリービルボード』のジェイソン・ディクソンのような。
しかし、所長がこの世界にはいないのがフィルにとっての悲劇であった。
いや、それがブロンコ・ヘンリーだったのだろうけど。
カウボーイが小姑ムーブをかましてくるというアイディアはかなり面白かったので、あのあたりをもっと精緻に描いてほしかった気もする。嫁はんの影が後半薄くなってしまったのが残念だ。
別に同性愛が本質の映画ではないと思うので。
翌日、頭を冷やして…
とはいえ、原作付きなのに、そこまで改変するわけにもいかんわなあ、と思う。
Netflixの製作ドキュメンタリーの方も見たのだ。
この部分のセリフを見る限り、やはり、この時点でフィルは自身の秘密の隠れ家や、そこに隠されていた男性ヌード写真などを見られた結果、ピーターを懐柔して操らなければならないと考えたということになる。
要するに、秘密をばらされたくないから媚びたふりをしているのだ。
この行動には男らしさのかけらもない。
「有害な男らしさ」というキーワードがこの映画の評で多用されるが、そもそもフィルは有害な男らしさを持ち合わせた人物ではないよなと思う。
どちらかといえば「有害な馬鹿さ」を持ち合わせた人物だ。
すなわち、バカなガキ大将みたいなやつなのである。
男というには幼い。
だからこそ、「お前! 俺の子分な!」といってピーターを連れまわし、縄を編んでやることに固執してそれが脅かされると目に涙まで浮かべるのだろう。
──そう、この映画でフィルはよく泣きそうになるのである。
涙は乙女の特権である。
こうしてフィルの乙女っぽさを強調しているからこそ、一部でゲイフォビアっぽいみたいな声も上がった(町山智弘がラジオでちょっとふれてた)のだと思うが、、。
この映画は結局少年と、少年と、大人になりきれないアルコール浸りの少女と、少女に恋をした男(後半影が薄くなるのは少しご都合主義的と言わざるを得ない)の話である。
なんならジュブナイルと言ってもいいくらい、幼い人たちの話だということをもっとみんなに認識してほしいと思う。
ジャングル系のパッションあふれるツッコミ。
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